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死刑賛成論者として


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 本日、松本智津夫死刑囚こと麻原彰晃の死刑が執行された。

 それに合わせて、上記の死刑廃止論者の意見が投稿されたので、これについて思うところを述べたい。

 この論ではまず、推定無罪の原則が骨抜きになっている現状が語られる。次に、拘禁刑による人権侵害と死刑による人権侵害には絶対的な差があり、後者の重みは取り返せないことが述べられる。そして、被害者の応報感情は軽く考えるべきではないとありはするものの、やはり冤罪により死刑になる人が出る確率が0でない以上死刑は廃止されるべき、という結論に達する。

 さて、私が死刑賛成論者である理由は、被害者およびその関係者の応報感情のためだ。私自身が死刑に値するほどの犯罪に関わったことはない。しかし、そうした方々の心情は察するに余りあり、また、もし自分が被害者側に立った時のために、死刑制度には賛成している。

 一方、この論者は冤罪で死刑になる人の存在を許せるか?と問いかけている。それについては正直なところ、許せない。

 だが、もう一つ正直なところを言うのならば、自分が無実だと確信しているのに死刑になる人がいる、という可能性にリアリティを感じられないのだ。

 ある人が死刑になるときには当然有罪判決がある。自分の親しい人の無実の訴えと裁判による審議によって出た有罪判決、どちらを信じるのかと問われたとき、私はおそらく後者を取るだろう。前者を取る立場にあるときを想像すると、私自身がアリバイの立証者であるが無視されたという場合ぐらいである。

 それでなければ、私自身が冤罪をかけられたか。

 しかしそれならば、真に取るべきは死刑廃止ではなく、冤罪回避に向けた努力ではないのだろうか?

 人間が無謬ではないのは確かだ。だから、冤罪で死刑になる人の存在を絶対には否定できない。しかし、その人が無実であったと確信できる状況もまた、想像が難しい。

 この論者は、死刑廃止論者が被害者関係者になったときに死刑賛成論者になることはごく自然なことだと述べている。そのごく自然なこと同等なこととして、死刑賛成論者である私が無実を確信できる死刑囚の存在を知ったとき死刑廃止論者になるかもしれない。しかし、仮にそんな確信を持てたとしても、私は死刑廃止ではなく、冤罪回避に向けた努力をする方を取るだろう。

 そしてこの論者は、冤罪ではないことが確定している死刑囚、例えば現行犯逮捕された死刑囚に対してどの立場を取るのだろう?どんなに可能性が低くても冤罪かもしれないと思って擁護するのだろうか?被害者関係者の感情も顧みずに?

 私には、その方が無理だ。

 まとめよう。

 死刑囚の冤罪の可能性が否定できない場合があることは認める。しかし、それは冤罪回避に向けた努力で対応すべきで、死刑廃止で対応するのは相当しないと考える。また、事件が存在した以上被害者および関係者と犯人は存在する。その犯人に相応するのが死刑であると考える被害者関係者の感情は決して無視すべきではない。

 冤罪回避に向けた努力に何があるのか?それは法曹に対する勉強が足りてない自分が具体的なところを論ずることはできないが、例えば本日の松本智津夫死刑囚は高裁で死刑が確定しそれが執行されている。もちろん特殊な事情があってのことだが、死刑判決は最高裁でないと出せないようにするなど、まだできることはあるのではないだろうか?

 そして最後に。この論者は法曹関係者であるからこそその信頼性に疑問を持っているのだろうが、少なくとも私は法曹を信頼しているからこその死刑賛成論者でもある。

 その信頼を裏切らない方向に向けて日々職務を遂行していただきたいと切に願う。