記号、現実、理想主義

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多様性は受け入れるしかない

 多様性は受け入れるしかない。しかし、それはあなたの望む多様性ではない。

他者の多様性を認めないのは多様性ではない、という欺瞞

 ここ数年、多様性を認めよ、という言説が政治的に正しい姿勢としてにわかに盛り上がりを見せている。多様性を認めない人は間違っているから是正せよというわけだ。

 これは簡単にその論理的誤謬を見出せる。

 多様性を認めない人がいるという多様性を認められない画一性がそこにあるだけなのだから。

 これに対し、多様性を認めない価値観は多様性とは言えない、だから多様性を認めない人を認めないのは問題ない、という反論がある。しかし、これは欺瞞に過ぎない。

 例えば共産主義。これは共産思想以外の政治思想を誤りとし認めない思想だ。旧ソ連や中国では政治活動の自由がない。

 しかし、世に共産主義があるということは国家のあり方の多様性に寄与していないだろうか?

 私は寄与していると思う。

 同様に、多様性を認めない価値観も多様性に寄与しているのだ。

正しくない信条が受け入れられないだけ

 何故多様性を認めない人を認めないという画一性にハマる人が出てくるのだろう?

 この人たちに多く共通するキーワードは、「正しい」であるように思う。多様性を認めることが正しいからこそ、それを認めないことは間違いであり、間違いは是正されるべきである、という考え方をしているように見えるのだ。

 もしここに正しさというキーワードがなく、例えば私はリンゴが好きだけれど彼はキウイが好きというように、ただの立場として自分は多様性を認めているというものでしかなかったとしたら、多様性を認めない人を間違っていると断ずる姿勢は現れ得なかっただろう。

 また、そうした立場こそ真に多様性を認める立場であるはずだ。

 ただ、何故かそこに正しい正しくないという軸が持ち込まれてしまい、結果多様性を認めない人は正しくないから「正しく」させるために非難するという行動が生まれてしまっている。

多様性は認めるのではなく受け入れるしかない

 最後に、多様性というのは認める認めないではなく、受け入れるしかないものだ。

 世の中には様々な人がいて、様々な考えがある。多様性を認めようと、認めまいとだ。

 あの人が理想とする画一性は無いし、あなたが理想とする多様性も無い。

 ただここにある混沌を多様性として受け入れる以外の道は誰にも無いのだ。