記号、現実、理想主義

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デフレ時代の不幸なオリンピック

 2020年の東京オリンピック、ケチが随分とついているように見える。

 今は開催のためにボランティアを募集していることが、学徒動員だなんだと文句をつけられている。

 しかし、これは以前に「開催費が高すぎる」として批判を受け、その後コンパクト五輪という銘打ちで予算がかなり削減されたが、これのあおりを受けたものではないのだろうか?

 つまり、元々の予算としてはちゃんと人件費が組まれていたのに、開催費が高すぎるという批判を受けた結果人員はボランティアによるものにするという珍案が出て現状になったのではないか?と疑っているのだ。

 そもそも五輪は公共事業を昂揚する側面がある。公費をつぎ込み民間にお金を回すこととしての五輪の存在意義は決して小さくない。というより、本気で平和の祭典のためだけに五輪を開催することに意義を感じている人はどれだけいるのだろう?少なくとも政治家たちは、そうした祭典としての意義よりも公共事業としての経済亢進策としての意義を大きく感じていたのではないだろうか?

 それを真っ向から否定する開催費が高いという声に屈してしまったのは、政治家たちのポピュリストとしての側面が悪い意味で現れてしまったからだろう。

 しかし、開催費が高いという声を上げた側はどうだったのか?

 ここ20年の日本はデフレの時代を過ごしてきた。この時代に適した生き残り戦略として、金を使って儲けることではなく金を使わず節約することがあったが、それをデフレから脱却しなければならない今になってもなお続けようとする勢力が一定数いるのだろう。というより、20年も続いてしまったのだからその戦略を金科玉条にする人たちが一定数いるのだ、きっと。

 五輪でお金を使う。そのメリットを一切理解せず高いと言って節約させた層、そしてその言い分に屈してしまった行政。

 それは、デフレ時代の呪いに他ならない。

 その結果が明らかに無理のあるボランティアの大量動員なのだろう。

 個人的には、今からでも予算をつけてもらいたい。それが非常に難しいことはわかっているが。

 デフレ時代の「コンパクト五輪」などでは平和の祭典を無事安全に行うことも、そして五輪の大きな側面である公共事業による経済亢進も達成できはしない。

 サマータイム対応に今からお金をかけられるのならば、それを無しにして人件費に回すべきである。