マイノリティに配慮しました、は嘘だ
マイノリティに配慮しました、というのは嘘だ。正確には、マイノリティに配慮すべきと考える人がマジョリティになったから配慮しました、だ。
数というのは単純に力だ。多くの人々がそうだと考えることが常識となり、ルールになる。もしこれが嫌でマイノリティが本当にマイノリティであるまま配慮をして欲しいのならば、今すぐ専制君主制を復活させて生類憐みの令を発令してもらう以外にない。
でも今はそんな時代じゃない。一部の政治的権力者が正しいと考えたことではなく、みんなが正しいと考えたことが正しくなるようなシステムが組まれている。それは決して悪いことじゃないし、そのこと自体を批判したいと思ってるわけじゃない。
でも、世の中にはこの「数こそ力」となった今の世界に無自覚である人が多い。
マイノリティでも権利を獲得できる、は決して嘘ではない。しかし、それはそのマイノリティの価値観がマジョリティの支持を得られたら権利を獲得できる、というのが本当のところだ。
だから、例えばロリコンというマイノリティが権利を獲得できる時代は来ないだろう。どう考えてもマジョリティの支持を得られるはずがない。私もロリコンの権利拡充には大反対だ。
話が多少ずれたが、なので「マイノリティにも権利を、多様な価値観を認める共生を」というのは言葉通りの意味で捉えるのならば欺瞞でしかないのだ。
本当にマイノリティに権利が与えられているわけではない。そのマイノリティの価値観がマジョリティの理解を得られたら権利が与えられるだけだ。であるから、決して多様な価値観が認められたわけではなく、マジョリティの支持を得られる程度の振れ幅の価値観が認められているだけだ。
一見マイナなままで認められているように見えるマイノリティの主張も、そうした数の力によって認められていることを自覚せねばならない。
そうでなければ、マジョリティの理解を得られない本当のマイノリティを踏みつけたことにすら気付けない人間になってしまうのだから。
全ては快不快の問題じゃないか
ライトノベルの表紙が性的であることについての批判が広がっている。その際に、快不快が軸ではない、という筋で論を張る人がいる。
何を言っているのか。全ては快不快の問題じゃないか。
女性が性的に消費されることを問題視する姿勢はわかる。しかし、それを感情の問題ではないと誤魔化すのは良くない。
我々が差別を撤廃することを是とするのは何故なのか?それは、差別があること自体が(自分が被差別側かどうかは関係なく)不愉快だという感情から出てきたものであることを忘れてはならない。
人々は全て平等であるという言葉は、真理ではなく理想だ。何故その理想を必要としたのか?それは差別はされることもその存在を認めることも、そして時にはすることですら不快だと人々が感じたからこそ、その不快がない理想の世界に現れるものとして求められたものだ。
決して、差別反対は人々が平等であるという真理から演繹されたものではない。差別に反対する人々の理想として人々は全て平等であるという考えが生まれたのだ。そして、人々は何故差別に反対したのか?それは、差別を不快だと考えるヒューマニズムが多くの人々の内にあったからだ。
ライトノベルの表紙が性的であることの問題も同じだ。それは、女性を性的に消費するのが良くないという真理から導き出されたものではなく(そもそもそんな真理はない)、そのこと自体が不快であるからこそ問題視されているのだ。
感情が先にあり、論理は後付けだ。
我々は人間であり、感情抜きでは生きられない存在だ。
だからこそ、自分の感情を論理で誤魔化してはいけない。
論理とは、感情を通すために使うこともあるものだ。自分の感情をなるべく多くの人に伝えるには、なぜその感情を抱いたのか説明する必要がある。説明は論理的である方がわかりやすい。ただ、それだけのこと。
それを忘れて、論理的であるから自分に分があると思い込むのは、道具に使われている愚かなことだ。
デフレ時代の不幸なオリンピック
2020年の東京オリンピック、ケチが随分とついているように見える。
今は開催のためにボランティアを募集していることが、学徒動員だなんだと文句をつけられている。
しかし、これは以前に「開催費が高すぎる」として批判を受け、その後コンパクト五輪という銘打ちで予算がかなり削減されたが、これのあおりを受けたものではないのだろうか?
つまり、元々の予算としてはちゃんと人件費が組まれていたのに、開催費が高すぎるという批判を受けた結果人員はボランティアによるものにするという珍案が出て現状になったのではないか?と疑っているのだ。
そもそも五輪は公共事業を昂揚する側面がある。公費をつぎ込み民間にお金を回すこととしての五輪の存在意義は決して小さくない。というより、本気で平和の祭典のためだけに五輪を開催することに意義を感じている人はどれだけいるのだろう?少なくとも政治家たちは、そうした祭典としての意義よりも公共事業としての経済亢進策としての意義を大きく感じていたのではないだろうか?
それを真っ向から否定する開催費が高いという声に屈してしまったのは、政治家たちのポピュリストとしての側面が悪い意味で現れてしまったからだろう。
しかし、開催費が高いという声を上げた側はどうだったのか?
ここ20年の日本はデフレの時代を過ごしてきた。この時代に適した生き残り戦略として、金を使って儲けることではなく金を使わず節約することがあったが、それをデフレから脱却しなければならない今になってもなお続けようとする勢力が一定数いるのだろう。というより、20年も続いてしまったのだからその戦略を金科玉条にする人たちが一定数いるのだ、きっと。
五輪でお金を使う。そのメリットを一切理解せず高いと言って節約させた層、そしてその言い分に屈してしまった行政。
それは、デフレ時代の呪いに他ならない。
その結果が明らかに無理のあるボランティアの大量動員なのだろう。
個人的には、今からでも予算をつけてもらいたい。それが非常に難しいことはわかっているが。
デフレ時代の「コンパクト五輪」などでは平和の祭典を無事安全に行うことも、そして五輪の大きな側面である公共事業による経済亢進も達成できはしない。
サマータイム対応に今からお金をかけられるのならば、それを無しにして人件費に回すべきである。
【読了】インベスターZ
反ワクチンを広めることに意味はなかった
先日、小児科医の方のブログを読んで、反ワクチン派にとっても反ワクチン思想を広めることは子供の命を守れないという点で意味がなかったのだということに気がついた。
順を追って説明する。
まず、
周囲の人の多くがワクチンを受けていると、受けている人自身も、受けていない人も守られます。先天性の免疫不全・免疫が弱くなる病気や治療をしている人が守られるのはとても大事なこと。実際には、存在しないワクチンによる不利益を恐れてワクチンを打たない人も、このように感染から守られます。
ワクチンについて学ぶなら - Jasmine Cafe
ということを理解したい。周りの人がワクチン接種をしているのならば、そもそも感染症が広まらないのでワクチン接種をしていない人も守られる、これは非常に大事なことだ。
そして、反ワクチン思想の中にはそれを一方的に利用する人も現れた。
ドクター・ボブはMMRワクチンを不安に思う親に向けてこう助言しているのだ。「その不安を近所の人と共有しないほうがいいでしょう。多くの人がMMRワクチンを避けるようになったら、病気はあっという間に戻ってきますから」
ドクター・ボブはフリーライドを勧めているということ。周りの人にワクチンを打ってもらって、自分は不安を感じるから子どもに打たないということを肯定しています。ロバート・チェン医師の第3期になった途端、妊娠中の人、病気などでワクチンを受けられない人、小さい子どもが感染の危険にさらされます。
ワクチンについて学ぶなら - Jasmine Cafe
これはものすごく平たくいうのなら、周りの人がワクチンを打ってくれてるなら私の子が打たなくても平気よね、そうすればワクチンの副作用のリスクゼロでワクチン接種の恩恵を受けられるわ♪ということだ。これをフリーライドと言いう。
でも、問題がある。この考えをする人が広がってワクチンを打たない人が増えたら、感染症はすぐに広まるようになりワクチンを打っていない子供の危険はぐんと高くなるのだ。
つまり、反ワクチン派にとっても反ワクチン思想を広めることは意味がなかったということだ。
このフリーライドを根拠としていない反ワクチン派の人もいるだろうが、そういう例もあったという話。
でもこれにはちょっと驚いた。反ワクチン派にこうした疫学的な根拠を持ってその上でフリーライドをしている例があるとは、と。
しかし、ワクチンというのは子供達を守るために接種すべきだ。
先ほどワクチンを打たない人が増えたらワクチンを打っていない子供の危険は高くなると言ったが、省略したことがある。ワクチンを打たない人が増えたら、ワクチンを打っている子供の危険も高くなるということだ。
ワクチンは一度受ければどんな条件であっても完璧に子供を守れるというものではないからこそ、集団で受けて子供を守れる可能性を上げていかねばならないと理解している。
そして同時に、ワクチンを接種することが自分の子供だけではなく、ワクチンを打てない病気の子供も守ることなのだと考えると、ますます接種しないという選択肢はなくなる。
ワクチンには副作用のリスクがある。それはその通り。しかし、そのリスクとワクチンを打たないことのリスクを秤にかけると、ワクチンを打ったほうがいいという判断になる。
ワクチンを打たないことのリスクとは、自分の子供も他の人の子供も感染症にかかる危険が高くなるということだ。そしてそれは副作用が起こる可能性よりもずっと高い。ならば、副作用が起こるリスクを取って接種する方を選ぶ。
反ワクチン派の人は、自分は打たないから放っておいて欲しいと思うかもしれない。けれども、それすら無理なのだ。前述の通り、ワクチンを打たない子供が増えたらワクチンを打っている子供の危険まで高くなるのだから。
ましてや、反ワクチン思想を広められることは感染症で死ぬ子供を増やすということに直結する。それは当然、反ワクチン派の子供にも襲いかかる。
反ワクチンを広めることは、本当に誰にとっても全く意味がないのだ。
現代における本屋の価値
私は電子書籍を活用している。なぜなら、今まで何千冊もの本を置くスペースがないという理由で処分してきた苦い経験があるからだ。電子書籍なら、置くスペースのことなど気にせずに本を買えるし、捨てるという苦い経験をせずに済む。
一方で、本屋にも行く。あの空間で様々な本を眺めながら夢に浸るのが好きなのだ。
そして、気になった本は電子書籍で買ってしまう。つまり、私は本屋にとって一番迷惑な類の客である。
私にとって現代の本屋は博物館に近い。様々なジャンルの様々な本を眺めて、雑誌が多いのは住宅街にある本屋だからだろうか、とか、よく平積みされている本だけれど世の人の関心が高いのだろうか、とか、夢想に浸る。この経験こそが本屋の価値でありそれに自体に対してお金を支払いたいが、そのためのシステムはまだ世に広まっていない。
その本屋で本を買えばいい、という意見もあると思うが、本はいつまでも手元にとっておきたいのに物理的に不可能というジレンマを解決してくれた電子書籍から戻る気はあまりしないのだ。
個人的には、本屋に行って気になった本のバーコードをスマホに読み取らせたら、その本屋の売り上げとなる形で電子書籍が買えるという世界が理想だ。もちろん物理的な本を買うこともできる。そうした本屋だったら、入場料が取られても構わない。
これこそが来たるべき未来の本屋だと思うのだ。
【読了】右翼と左翼
まず、右翼と左翼の定義について勉強しようと思い上記の本を読んだ。Wikipediaの左翼の項の参考文献にあった本だ。
前書きには、右翼と左翼についてとりあえずわかりたいという人向けの本だとあったが、その言葉に嘘はなかったと読み終えて思う。
フランス革命の議会の故事から始まる右翼と左翼の歴史を程よい密度で紐解いてくれていた。
これを読むと、フランス革命からこちら世界は基本的に左傾の歴史を紡いできたことがわかる。そして、右翼は左翼に対する反発として生まれたことや、右翼と左翼という定義は相対的であり、さらなる左が定着するごとにそれまでの左は右となるという基本則があることも。
また、イスラム世界などのイデオロギーは右翼左翼という軸では捉えられないというところまでフォローしていて、右翼と左翼についてとりあえずわかりたいということならこの本で十分なのだろうと思った。参考文献もちゃんと書かれている上、それをどのように参考にしたかまで書かれているので、この本を最初の手がかりにして更に右翼と左翼の定義について突き詰めていくこともできるだろう。
最後に作者自身の政治的スタンスについてちゃんと説明されていたのも良心的だと感じた。個人的にはあまり同意するところではないスタンスではあったが。
総じて、良い本だった。