記号、現実、理想主義

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全ては快不快の問題じゃないか

 ライトノベルの表紙が性的であることについての批判が広がっている。その際に、快不快が軸ではない、という筋で論を張る人がいる。

 何を言っているのか。全ては快不快の問題じゃないか。

 女性が性的に消費されることを問題視する姿勢はわかる。しかし、それを感情の問題ではないと誤魔化すのは良くない。

 我々が差別を撤廃することを是とするのは何故なのか?それは、差別があること自体が(自分が被差別側かどうかは関係なく)不愉快だという感情から出てきたものであることを忘れてはならない。

 人々は全て平等であるという言葉は、真理ではなく理想だ。何故その理想を必要としたのか?それは差別はされることもその存在を認めることも、そして時にはすることですら不快だと人々が感じたからこそ、その不快がない理想の世界に現れるものとして求められたものだ。

 決して、差別反対は人々が平等であるという真理から演繹されたものではない。差別に反対する人々の理想として人々は全て平等であるという考えが生まれたのだ。そして、人々は何故差別に反対したのか?それは、差別を不快だと考えるヒューマニズムが多くの人々の内にあったからだ。

 ライトノベルの表紙が性的であることの問題も同じだ。それは、女性を性的に消費するのが良くないという真理から導き出されたものではなく(そもそもそんな真理はない)、そのこと自体が不快であるからこそ問題視されているのだ。

 感情が先にあり、論理は後付けだ。

 我々は人間であり、感情抜きでは生きられない存在だ。

 だからこそ、自分の感情を論理で誤魔化してはいけない。

 論理とは、感情を通すために使うこともあるものだ。自分の感情をなるべく多くの人に伝えるには、なぜその感情を抱いたのか説明する必要がある。説明は論理的である方がわかりやすい。ただ、それだけのこと。

 それを忘れて、論理的であるから自分に分があると思い込むのは、道具に使われている愚かなことだ。