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安楽死を制度として求める人たち

 安楽死を認めることは寛容である、と言いたげな意見を読んだ。私はこの意見に真っ向から反対するものであり、安楽死を制度として求める人たちの醜悪さについてここで述べたい。

 ここでは、医療行為の延長線上の安楽死ではなく、社会インフラとしての安楽死について述べる。

 結論から先に言うと、安楽死を制度として求める人は、安楽死して欲しい人間がいる、もっと平たく言うと、死んで欲しい人間がいる人である。

 まずここで、安楽死を求める人と安楽死を制度として求める人は別物だと言うことを整理したい。

 安楽死を求める人は自殺をしたいが死に至る苦痛に耐える覚悟がない人だ。この人たちは勝手にすればいいと思う。今だって自分が死ぬ分には苦痛が少ないと言われている方法を選択することができるし、そもそも死に至る苦痛の予感が自殺の妨げになっている程度の絶望ならばまだまだ生きていけるよ、などとも思う。

 だが問題は、安楽死を制度として求める人だ。

 安楽死を制度化するにはまず何が必要かと言うと、条件付けだ。これこれこういう条件を満たした人は死んでもいい、というものが必要になる。

 安楽死を制度化したい人はこの「死んでもいい人間の条件」が定義されることを求めているのではないか?そして、この条件を満たした人間に死んで欲しいのだ。

 その条件に本人が死を望んでいることを含めるのは当たり前であって、決して他人を殺すための安楽死制度ではない、という反論があるだろう。

 しかし、本人が本当に死を望んでいるのならば、自ら死ぬことは今でも妨げられているものではない。つまり、制度として用意する必要はないのでこの反論は当たらない。

 もし安楽死が制度として用意されたら、本人の意思以外の死んでもいい条件を満たした人へ死の圧力が加わるだろう。それが本人の生きる意思を曲げることになることも予想される。それは最悪の形をしたハラスメントだ。

 安楽死を制度として用意することは、死にたい人間の意思を尊重する寛容ではなく、生きていてほしくない人間への最悪の不寛容を引き起こすだろう。

 自分が苦痛なく死にたいから安楽死がしたい、その意見までは理解するが、安楽死を制度として用意するべきである、というのは、以上の理由で断固反対である。