記号、現実、理想主義

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本気で選挙に行く意味あると思ってる

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 まず、このエントリにおける「意味」という言葉が「影響」でしかないことを指摘しよう。その上でこのエントリを読むと、彼が述べていることは大筋で間違ってはいない。

 ただ1票を投じるより立候補したりテロを起こしたりする方が政治に与える影響は大きい。それは確かだ。けれども影響を考えるのならば、無投票が与える影響と有効票が与える影響には非常に大きな差があることを彼は自覚すべきである。

 無投票が与える影響は、組織票への援護、多数派への積極的な信任がある。また、投票状況は統計されているので、自分と同じ世代の人たちの影響力を減殺するというものもある。

 一方有効票が与える影響は、組織票への対抗、投票した派閥への援護、同世代の影響力の増進が挙げられる。

 この差を考えると、たかが1票は1/1億と考えるのは難しくなってこないだろうか?

 加えて、影響と意味は別物である。意味とは価値観に支えられて生まれるものだ。

 影響がないなら意味がないという彼の価値観は単純に否定すべきものではないが、仮に影響がなくとも意味を見出す価値観の人はいるだろう。私もその一人である。

 なので、以降は私の考える意味を述べたい。

 まず、政治は政治家のためのものではなく、国民のためのものであると私は理解している。

 では、国民が全員政治に専念して自らの政治への影響力を振るえばいいだろうか?しかしこれから述べるがそれは無意味なのだ。

 国民には生活がある。自らの家庭や仕事、勉強など、自分の問題として取り組むべき課題とも言えるものだ。もしもそれらの課題を全て自分の裁量で解決できるのならば、多分政治は必要ない。

 けれども現実はそうではない。例えば勉強に専念するのなら仕事ができないのに学費生活費は必要とされてしまうなど、生活には自分だけの裁量では解決が難しい問題がある。

 それらを解決する手段の一つとして政治があるのだ。それが、政治は国民のためのものであるという意味だと私は考える。そして同時にこれは、生活をする人こそが政治に参加することに意味があることを示す。

 しかし、生活をする人が政治に参加するために自らの生活を崩して政治に専念するのは本末転倒なのだ。だから国民全員が政治に専念することには全く意味がない。

 では、生活を崩さずに政治に参加する手段として何があるのか?それが選挙制度なのだ。そして本来なら代議士は、いや、立候補者は他の人のために自らの生活を崩す決心をした尊重すべき国民なのである。

 でも自分の票に影響力がなければ政治に参加したとは言えないのでは?というのが冒頭のエントリの筆者の主張だ。

 しかし、私は私の生活を守りながらそれをどのように改善していきたいかという意志を示すことに意味があると思っている。

 仮に私の票が選挙結果により死に票となって政治に何の影響も与えなかったとしても、私の意志がどこにあったのかを1という数字で示すことに意味を感じるのだ。そしてそれこそが政治参加だと思っている。

 だから私は、本気で選挙に行く意味あると思ってる。