記号、現実、理想主義

社会について学び、考えるブログです

多様性は受け入れるしかない

 多様性は受け入れるしかない。しかし、それはあなたの望む多様性ではない。

他者の多様性を認めないのは多様性ではない、という欺瞞

 ここ数年、多様性を認めよ、という言説が政治的に正しい姿勢としてにわかに盛り上がりを見せている。多様性を認めない人は間違っているから是正せよというわけだ。

 これは簡単にその論理的誤謬を見出せる。

 多様性を認めない人がいるという多様性を認められない画一性がそこにあるだけなのだから。

 これに対し、多様性を認めない価値観は多様性とは言えない、だから多様性を認めない人を認めないのは問題ない、という反論がある。しかし、これは欺瞞に過ぎない。

 例えば共産主義。これは共産思想以外の政治思想を誤りとし認めない思想だ。旧ソ連や中国では政治活動の自由がない。

 しかし、世に共産主義があるということは国家のあり方の多様性に寄与していないだろうか?

 私は寄与していると思う。

 同様に、多様性を認めない価値観も多様性に寄与しているのだ。

正しくない信条が受け入れられないだけ

 何故多様性を認めない人を認めないという画一性にハマる人が出てくるのだろう?

 この人たちに多く共通するキーワードは、「正しい」であるように思う。多様性を認めることが正しいからこそ、それを認めないことは間違いであり、間違いは是正されるべきである、という考え方をしているように見えるのだ。

 もしここに正しさというキーワードがなく、例えば私はリンゴが好きだけれど彼はキウイが好きというように、ただの立場として自分は多様性を認めているというものでしかなかったとしたら、多様性を認めない人を間違っていると断ずる姿勢は現れ得なかっただろう。

 また、そうした立場こそ真に多様性を認める立場であるはずだ。

 ただ、何故かそこに正しい正しくないという軸が持ち込まれてしまい、結果多様性を認めない人は正しくないから「正しく」させるために非難するという行動が生まれてしまっている。

多様性は認めるのではなく受け入れるしかない

 最後に、多様性というのは認める認めないではなく、受け入れるしかないものだ。

 世の中には様々な人がいて、様々な考えがある。多様性を認めようと、認めまいとだ。

 あの人が理想とする画一性は無いし、あなたが理想とする多様性も無い。

 ただここにある混沌を多様性として受け入れる以外の道は誰にも無いのだ。

【読了】猫組長と西原理恵子のネコノミクス宣言

 

猫組長と西原理恵子のネコノミクス宣言

猫組長と西原理恵子のネコノミクス宣言

 

  この本は、山本一郎氏がオススメをしていたので買ってみた。

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 読み始めてみて、最初は西原理恵子氏の漫画が載っており非常に読みやすい本を期待できるが、それは序の口まで。本編に入ると西原氏の漫画は載らなくなり、猫組長が淡々と語る世界の裏事情についての本になる。

 この本を読みこなすには、ある程度の金融リテラシーが必要だと感じた。少なくとも与信取引の概要くらいは知っておく必要がありそうだ。

 そうしたものが分からない私にとっては、この筆者が通った裏道というものの価値がいまいちよく分からない。作中に出てくる取引のうちどの部分が不正だったのかはさすがにわかるが、どうして普通はその不正がされないのかが分かっていないので、いまいち凄みが理解できないのだ。しかし、これは私のリテラシーの問題で、本が悪いという話では全く無い。

 けれども、そうした凄みがわからない人間でもこの本は面白かった。自分が知らない世界を垣間見るということはいつでも面白いことだ。

 そして、経済活動を研究した本は多いが、こうした裏社会の経済活動と表の経済活動を包括的に見た本はないだろうか?と思った。

輪るピングドラムと地下鉄サリン事件

 7年前の7月7日、輪るピングドラムというTVアニメの放送が開始した。

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 このアニメは、非常に挑戦的な問題作だ。親の愛に恵まれなかった子供たちはどう生き残っていくべきかを、地下鉄サリン事件をモチーフに描いた作品だからだ。

 私はこの作品が大好きだ。恋愛的な愛ではない愛を克明に描いた作品であるからだ。だが同時に、なぜ地下鉄サリン事件がモチーフなのかあまり理解できていないし、この事件と絡めてこの作品を読み解くことに抵抗感を感じる。

 なぜなら、事件の加害者の子供達と事件の被害者関係者が和解するストーリーラインがあるからだ。その上それが主題ではない。

 この作品の主題はあくまでも愛だ。愛されることの意味、そして愛されないこととはどのような結末をもたらすのか、愛されなかった子供に救いはあるのか、そうしたことを描いている。

 また、この作品に関する重大な事件として、酒鬼薔薇聖斗事件も挙げられるだろう。彼の手紙に記された「透明な存在」というキーワードもこの作品に登場し、愛されなかった子供は透明になってしまうと繰り返し述べられる。

 そして、作中で起きたテロ事件の首謀者は、透明な存在である自分は世界を呪い復讐するという動機で地下鉄テロを起こす。

 この作品は斯様に平成前半の大きな事件を包括した作品である。そしてこれは単なる偶然ではあるのだが、東日本大震災が起きた平成23年に放送された。この東日本大震災も作品に影響を与えており、赤べこなど東北モチーフの小物がところどころ登場する。

 つまり輪るピングドラムというアニメ作品は、大げさに言うのならば平成を象徴する作品と言えるのだ。

死刑賛成論者として


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 本日、松本智津夫死刑囚こと麻原彰晃の死刑が執行された。

 それに合わせて、上記の死刑廃止論者の意見が投稿されたので、これについて思うところを述べたい。

 この論ではまず、推定無罪の原則が骨抜きになっている現状が語られる。次に、拘禁刑による人権侵害と死刑による人権侵害には絶対的な差があり、後者の重みは取り返せないことが述べられる。そして、被害者の応報感情は軽く考えるべきではないとありはするものの、やはり冤罪により死刑になる人が出る確率が0でない以上死刑は廃止されるべき、という結論に達する。

 さて、私が死刑賛成論者である理由は、被害者およびその関係者の応報感情のためだ。私自身が死刑に値するほどの犯罪に関わったことはない。しかし、そうした方々の心情は察するに余りあり、また、もし自分が被害者側に立った時のために、死刑制度には賛成している。

 一方、この論者は冤罪で死刑になる人の存在を許せるか?と問いかけている。それについては正直なところ、許せない。

 だが、もう一つ正直なところを言うのならば、自分が無実だと確信しているのに死刑になる人がいる、という可能性にリアリティを感じられないのだ。

 ある人が死刑になるときには当然有罪判決がある。自分の親しい人の無実の訴えと裁判による審議によって出た有罪判決、どちらを信じるのかと問われたとき、私はおそらく後者を取るだろう。前者を取る立場にあるときを想像すると、私自身がアリバイの立証者であるが無視されたという場合ぐらいである。

 それでなければ、私自身が冤罪をかけられたか。

 しかしそれならば、真に取るべきは死刑廃止ではなく、冤罪回避に向けた努力ではないのだろうか?

 人間が無謬ではないのは確かだ。だから、冤罪で死刑になる人の存在を絶対には否定できない。しかし、その人が無実であったと確信できる状況もまた、想像が難しい。

 この論者は、死刑廃止論者が被害者関係者になったときに死刑賛成論者になることはごく自然なことだと述べている。そのごく自然なこと同等なこととして、死刑賛成論者である私が無実を確信できる死刑囚の存在を知ったとき死刑廃止論者になるかもしれない。しかし、仮にそんな確信を持てたとしても、私は死刑廃止ではなく、冤罪回避に向けた努力をする方を取るだろう。

 そしてこの論者は、冤罪ではないことが確定している死刑囚、例えば現行犯逮捕された死刑囚に対してどの立場を取るのだろう?どんなに可能性が低くても冤罪かもしれないと思って擁護するのだろうか?被害者関係者の感情も顧みずに?

 私には、その方が無理だ。

 まとめよう。

 死刑囚の冤罪の可能性が否定できない場合があることは認める。しかし、それは冤罪回避に向けた努力で対応すべきで、死刑廃止で対応するのは相当しないと考える。また、事件が存在した以上被害者および関係者と犯人は存在する。その犯人に相応するのが死刑であると考える被害者関係者の感情は決して無視すべきではない。

 冤罪回避に向けた努力に何があるのか?それは法曹に対する勉強が足りてない自分が具体的なところを論ずることはできないが、例えば本日の松本智津夫死刑囚は高裁で死刑が確定しそれが執行されている。もちろん特殊な事情があってのことだが、死刑判決は最高裁でないと出せないようにするなど、まだできることはあるのではないだろうか?

 そして最後に。この論者は法曹関係者であるからこそその信頼性に疑問を持っているのだろうが、少なくとも私は法曹を信頼しているからこその死刑賛成論者でもある。

 その信頼を裏切らない方向に向けて日々職務を遂行していただきたいと切に願う。

安楽死を制度として求める人たち

 安楽死を認めることは寛容である、と言いたげな意見を読んだ。私はこの意見に真っ向から反対するものであり、安楽死を制度として求める人たちの醜悪さについてここで述べたい。

 ここでは、医療行為の延長線上の安楽死ではなく、社会インフラとしての安楽死について述べる。

 結論から先に言うと、安楽死を制度として求める人は、安楽死して欲しい人間がいる、もっと平たく言うと、死んで欲しい人間がいる人である。

 まずここで、安楽死を求める人と安楽死を制度として求める人は別物だと言うことを整理したい。

 安楽死を求める人は自殺をしたいが死に至る苦痛に耐える覚悟がない人だ。この人たちは勝手にすればいいと思う。今だって自分が死ぬ分には苦痛が少ないと言われている方法を選択することができるし、そもそも死に至る苦痛の予感が自殺の妨げになっている程度の絶望ならばまだまだ生きていけるよ、などとも思う。

 だが問題は、安楽死を制度として求める人だ。

 安楽死を制度化するにはまず何が必要かと言うと、条件付けだ。これこれこういう条件を満たした人は死んでもいい、というものが必要になる。

 安楽死を制度化したい人はこの「死んでもいい人間の条件」が定義されることを求めているのではないか?そして、この条件を満たした人間に死んで欲しいのだ。

 その条件に本人が死を望んでいることを含めるのは当たり前であって、決して他人を殺すための安楽死制度ではない、という反論があるだろう。

 しかし、本人が本当に死を望んでいるのならば、自ら死ぬことは今でも妨げられているものではない。つまり、制度として用意する必要はないのでこの反論は当たらない。

 もし安楽死が制度として用意されたら、本人の意思以外の死んでもいい条件を満たした人へ死の圧力が加わるだろう。それが本人の生きる意思を曲げることになることも予想される。それは最悪の形をしたハラスメントだ。

 安楽死を制度として用意することは、死にたい人間の意思を尊重する寛容ではなく、生きていてほしくない人間への最悪の不寛容を引き起こすだろう。

 自分が苦痛なく死にたいから安楽死がしたい、その意見までは理解するが、安楽死を制度として用意するべきである、というのは、以上の理由で断固反対である。

本気で選挙に行く意味あると思ってる

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 まず、このエントリにおける「意味」という言葉が「影響」でしかないことを指摘しよう。その上でこのエントリを読むと、彼が述べていることは大筋で間違ってはいない。

 ただ1票を投じるより立候補したりテロを起こしたりする方が政治に与える影響は大きい。それは確かだ。けれども影響を考えるのならば、無投票が与える影響と有効票が与える影響には非常に大きな差があることを彼は自覚すべきである。

 無投票が与える影響は、組織票への援護、多数派への積極的な信任がある。また、投票状況は統計されているので、自分と同じ世代の人たちの影響力を減殺するというものもある。

 一方有効票が与える影響は、組織票への対抗、投票した派閥への援護、同世代の影響力の増進が挙げられる。

 この差を考えると、たかが1票は1/1億と考えるのは難しくなってこないだろうか?

 加えて、影響と意味は別物である。意味とは価値観に支えられて生まれるものだ。

 影響がないなら意味がないという彼の価値観は単純に否定すべきものではないが、仮に影響がなくとも意味を見出す価値観の人はいるだろう。私もその一人である。

 なので、以降は私の考える意味を述べたい。

 まず、政治は政治家のためのものではなく、国民のためのものであると私は理解している。

 では、国民が全員政治に専念して自らの政治への影響力を振るえばいいだろうか?しかしこれから述べるがそれは無意味なのだ。

 国民には生活がある。自らの家庭や仕事、勉強など、自分の問題として取り組むべき課題とも言えるものだ。もしもそれらの課題を全て自分の裁量で解決できるのならば、多分政治は必要ない。

 けれども現実はそうではない。例えば勉強に専念するのなら仕事ができないのに学費生活費は必要とされてしまうなど、生活には自分だけの裁量では解決が難しい問題がある。

 それらを解決する手段の一つとして政治があるのだ。それが、政治は国民のためのものであるという意味だと私は考える。そして同時にこれは、生活をする人こそが政治に参加することに意味があることを示す。

 しかし、生活をする人が政治に参加するために自らの生活を崩して政治に専念するのは本末転倒なのだ。だから国民全員が政治に専念することには全く意味がない。

 では、生活を崩さずに政治に参加する手段として何があるのか?それが選挙制度なのだ。そして本来なら代議士は、いや、立候補者は他の人のために自らの生活を崩す決心をした尊重すべき国民なのである。

 でも自分の票に影響力がなければ政治に参加したとは言えないのでは?というのが冒頭のエントリの筆者の主張だ。

 しかし、私は私の生活を守りながらそれをどのように改善していきたいかという意志を示すことに意味があると思っている。

 仮に私の票が選挙結果により死に票となって政治に何の影響も与えなかったとしても、私の意志がどこにあったのかを1という数字で示すことに意味を感じるのだ。そしてそれこそが政治参加だと思っている。

 だから私は、本気で選挙に行く意味あると思ってる。

大衆は右と左どちらを向くのか?

 私は理系の大学出身であり、あまり社会学には明るくない。

 だが、そんな中である予想を立てている。昨今の左派の凋落、右派の台頭は、右派こそがより大衆の方を向いているから起きている、と。

 今は左派が大衆に寄り添わず、右派がその役目を果たしている時代なのだ。

 なぜそのようなことが起きたかというと、世の豊かさの絶対値は上がったが、大衆は相対的に貧しいままであるからだ。

 世の豊かさの絶対値が上がり、何が起きたか?左派が労働者問題や福祉問題といった大衆の生活に直結した問題よりももっと理念的な問題に取り掛かるようになった。反戦争、反原発、ポリティカルコレクトネスといった問題だ。しかし、大衆はそうした問題よりも日々の生活の方が大切である。

 一方の右派は大衆に何を示したか?仕事である。国粋主義的な内需拡大志向を持った政策は、大衆に仕事を約束した。それは大衆が求めていた日々の生活を支えるものだ。

 しかし左派、特に左派インテリ層はそうした大衆の現実が見えていないように見える。なぜか?

 それは左派インテリ層がそれなりの数を持った派閥だからだ。世の豊かさの絶対値が上がったことにより左派インテリ層は数を増した。だから彼らは自分たちを特権階級だと思っていない。むしろ自分たちが大衆だという自覚すら持っているかもしれない。

 また、左派の重要な思想の一つに平等主義がある。その平等主義により彼らは階層の存在を認めない傾向があるようにも見える。それもあって、彼らは自分たちが特権階級であることに無自覚であるのではないか。

 その勘違いが、左派に対する大衆の支持を失わせている。さらに、分断と呼ばれる現象も引き起こしている。

 このまま行くと、100年後には大衆は左派であり特権階級は右派であった時代は忘れ去られ、大衆が右派であり特権階級が左派であることが当たり前の時代がやってくるかもしれない。その萌芽はすでに見えている。

 

 というのが私の今の考えだ。しかし、最初にも述べた通り私は社会学には明るくない。これらの考えは私なりに社会を見聞きして考えたものではあるが、致命的な勘違いを含んでいるかもしれない。

 なので、この考えの確からしさを検証するために勉強をしていきたい。